Little Miss One-way
思いつくままに恋愛小説をつづります。 大学生同士のちょっと変わった恋愛を書いた 「いびつなハート」連載中です。
影山くんの奇妙な日常 第一話
俺は影山真人、大学二年生。勉強はそこそこにバンド活動とバイトに勤しむ毎日だ。
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。自分で言うのもなんだけど結構もてる。でも俺はあまり女性と付き合うのが得意じゃなくて特定の彼女はいない。これは姉三人に囲まれて育ったせいだと思っているが因果関係は定かでない。
そんな俺が、ある日バンドのファンということで親しくなったミサという女子高生から相談を受けた。俺はよく女の子から相談されるがこれも三人の姉に囲まれて育ったせいだと思うが……まあ、いい。
携帯で呼び出され、指定されたファミレスに行くと、ミサはもう窓際の席に座って待っていた。高校生のくせに茶色の髪をぐりぐりと弄りながら煙草を吸っている。俺が席に着くと、待っていたように口を開いた。
「最近、彼氏がおかしいの」
彼氏は大学生で一人暮らしをしており、ミサは実家に住んでいる。毎日学校が終わってから電話をかけ、彼氏の家に通う毎日だそうだが、最近携帯がいつも圏外なのだという。
「ただ、家に行けば何事もなかったようにいるのよね。電話したんだけどっていうと、いつも気付かなかったっていうんだ」
でなんでそれを俺に言うのか、どうしてほしいのか。と思いつつも俺は頷いて先を促す。
「もうひとつ気になってることがあって。彼の部屋、居間の奥が寝室なんだけどね、その寝室に最近いつも鍵がかかってたんだ。変だなと思ってたんだけど」
ここまで話したところでウエイトレスがお冷を持ってきた。コーヒーを注文する。
「ある日また電話が通じなかったから直接彼の家に行ったんだ。で、いつもチャイム鳴らすんだけどその日はこっそり鍵を開けて入ったの。合鍵がポストの裏にあるのをずいぶん前に見つけてたから」
注文したコーヒーが運ばれてきた。コーヒーを飲みながら話を聞く。
ミサが足音を立てずにそろそろと入っていくと、居間に彼は見当たらず、奥の寝室からぼそぼそと話し声が聞こえたという。なんだか怖くなって声をかけると、彼が寝室から飛びだしてきたそうだ。
「その時ね、寝室の引き戸の隙間から、見えたの。女の人の後ろ姿が!」
「やっぱ浮気してたのか」
「うん、ただの浮気ならいいんだけどね……。最近寝室に鍵がかかってたこととか考えるとなんか心配になっちゃって。様子もおかしいし」
その日はこっそり入ってきたことに激怒され彼の家をすぐに追い出されたため、それ以上のことはわからないという。
ミサは彼氏がなにか犯罪のようなことにかかわってないか不安なようだ。
「でもなんだかんだいっても私まだ子供だし、なにかあっても対処できないし」
そこまで言うとミサは急に俺に手を合わせると
「おねがい! 今から彼氏の家に行くからついてきて!」
と頭を下げた。俺はあまり気が進まなかったが、なにやら怪しい気配がするし、ミサに何かあっては困ると思い、ついていくことにした。彼氏の家はこのファミレスから歩いて五分ほどの距離にあるという。さっそく伝票を取ってレジに向かった。
家まで歩く途中、彼氏についてミサが話し出した。
彼氏の名前はキョウタロウ。美術大学の四年生で、真面目な、おとなしい人物らしいが、芸術家らしくかなり神経質で変わり者のようだ。ある日家に行ったら居間の壁中にいろいろな彫刻の写真が貼ってあり、ミサを驚かせたこともあるらしい。
ただ高校生のミサにはそんな所もアーティスティックに映ったようだ。そしてなにより、このキョウタロウはものすごい美形なのだそうだ。ミサいわくそこに「も」惹かれたらしいが、俺は「も」は不要じゃないかと思っている。
最近は卒業制作のため大学と家のどちらかで作業をしていることが多かったという。
そうこうしているうちにアパートの前に着いた。ミサが携帯に電話をかける。いつものように圏外だったようだ。
「きっと家にいるわ。こっそり入って浮気現場を押さえるのよ」
といってミサはポケットから鍵を取り出し掲げた。そういうつもりだったのか。なんだか大変なことになってきたがここまできたら行くしかない。
彼の住む三階までエレベータで上がり、部屋の扉の前に着くと、ミサは唇に一本立てた人差し指を当て、静かに鍵を挿し、回した。……こういう感じの、テレビで見たことあるような。
チャ、と小さな音をたてて鍵が開いた。ゆっくり扉を開き、体分開いた所で中に入る。正面に居間が見えたが、電気やパソコンは煌々とついているにもかかわらず、誰もいない。居間の奥に襖が見える。おそらく襖の向こうが寝室なのだろう。ミサは俺の手を引くと土足のまま忍び足で居間を通り抜け、襖の前に立った。奥からぼそぼそと話し声が聞こえる。
またミサが人差し指を立てて唇にあてると、反対の手で襖を引いた。襖には錠を差し込む金具が付いており、今は鍵は付いていなかった。もしかすると内側に鍵がかかっているかもしれないと思ったが、何の手ごたえもなく一センチほど開いた。幸いにも全く何の音もしなかった。
隙間から中を覗くと、薄暗い部屋の中に、ベッドに座る二人の影が見えた。カーテンを閉め切り、ナイトランプのような暗めのライトをつけているようだ。
キョウタロウは、隣に座るセミロングの栗色の髪の女性の肩を抱き、何かを話していた。はっきりと聞き取れないが愛してるとか、綺麗だとか、そんな感じのことをうっとりと呟いているようだ。女性は俺たちにほとんど背を向けており、顔は見えない。
キョウタロウが女性の顎に手をそえ、引きよせたように見えた。と
思った瞬間、ミサが我慢の限界に来たらしく、勢いよく襖を開けた。
「キョウちゃんのバカー!」
とミサは叫ぶと、部屋に飛び込んでいった。俺も勢いに任せ後に続く。キョウタロウはミサの声にビクっと反応し、目を剥いて俺達を見上げた。白いほっそりとした顔が、居間から延びた蛍光灯の白い光に照らされる。女性は俺たちに背を向けたまま微動だにしない。
「ミサ……」
ミサは、そう呟くキョウタロウを一瞥すると、意識をじっとしたまままの女性のほうに向けた。
「ちょっとあなた、どういうつもりなの!?」
ミサは女性の肩に手を置き、こちらを向かせるようにグイと引っ張った。
すると女性は音もなく仰向けにベッドの上に倒れてしまった。ミサが悲鳴をあげる。二人でおそるおそる女性を覗き込むと、ミサに引っ張られて服がはだけた右肩に、関節のつなぎ目が覗いていた。
それは、プラスチックのマネキンのような人形だった。
黄色いサマーセーターから伸びた白いすべすべとした首が、蛍光灯の白い明りを吸いこんで冷たく光っていた。赤く瑞々しい唇の上に、形の良い小ぶりの鼻があり、その両脇に大きく真っ黒なガラスの瞳が宙を仰いでいる。肢体は両腕を広げた格好で固まっていて、彼女だけ時間が止まってしまったかのようだった。
俺とミサは言葉もなく立ち尽くし、沈黙で数秒が過ぎた。
「……けよ」
キョウタロウが、人形を抱き起こし、何かつぶやいた。
「出てけよ――!!」
キョウタロウが絶叫するのに弾かれるように、俺たちは黙ってキョウタロウの家を後にした。その後、ミサとどこで別れたのか、どんなふうに家に帰ったかも覚えていない。
これは後で気づいたことだが、キョウタロウの中世的な美しい顔と、マネキンのなまめかしく微笑む顔はそっくりで、今でも目をつぶるとありありと思い出せるほどだ。
あの人形は何だったのか、ミサとキョウタロウがその後どうなったか、俺は知らない。
第二話へ
あとがき↓ 注意*他作品のネタばれがあります。
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。自分で言うのもなんだけど結構もてる。でも俺はあまり女性と付き合うのが得意じゃなくて特定の彼女はいない。これは姉三人に囲まれて育ったせいだと思っているが因果関係は定かでない。
そんな俺が、ある日バンドのファンということで親しくなったミサという女子高生から相談を受けた。俺はよく女の子から相談されるがこれも三人の姉に囲まれて育ったせいだと思うが……まあ、いい。
携帯で呼び出され、指定されたファミレスに行くと、ミサはもう窓際の席に座って待っていた。高校生のくせに茶色の髪をぐりぐりと弄りながら煙草を吸っている。俺が席に着くと、待っていたように口を開いた。
「最近、彼氏がおかしいの」
彼氏は大学生で一人暮らしをしており、ミサは実家に住んでいる。毎日学校が終わってから電話をかけ、彼氏の家に通う毎日だそうだが、最近携帯がいつも圏外なのだという。
「ただ、家に行けば何事もなかったようにいるのよね。電話したんだけどっていうと、いつも気付かなかったっていうんだ」
でなんでそれを俺に言うのか、どうしてほしいのか。と思いつつも俺は頷いて先を促す。
「もうひとつ気になってることがあって。彼の部屋、居間の奥が寝室なんだけどね、その寝室に最近いつも鍵がかかってたんだ。変だなと思ってたんだけど」
ここまで話したところでウエイトレスがお冷を持ってきた。コーヒーを注文する。
「ある日また電話が通じなかったから直接彼の家に行ったんだ。で、いつもチャイム鳴らすんだけどその日はこっそり鍵を開けて入ったの。合鍵がポストの裏にあるのをずいぶん前に見つけてたから」
注文したコーヒーが運ばれてきた。コーヒーを飲みながら話を聞く。
ミサが足音を立てずにそろそろと入っていくと、居間に彼は見当たらず、奥の寝室からぼそぼそと話し声が聞こえたという。なんだか怖くなって声をかけると、彼が寝室から飛びだしてきたそうだ。
「その時ね、寝室の引き戸の隙間から、見えたの。女の人の後ろ姿が!」
「やっぱ浮気してたのか」
「うん、ただの浮気ならいいんだけどね……。最近寝室に鍵がかかってたこととか考えるとなんか心配になっちゃって。様子もおかしいし」
その日はこっそり入ってきたことに激怒され彼の家をすぐに追い出されたため、それ以上のことはわからないという。
ミサは彼氏がなにか犯罪のようなことにかかわってないか不安なようだ。
「でもなんだかんだいっても私まだ子供だし、なにかあっても対処できないし」
そこまで言うとミサは急に俺に手を合わせると
「おねがい! 今から彼氏の家に行くからついてきて!」
と頭を下げた。俺はあまり気が進まなかったが、なにやら怪しい気配がするし、ミサに何かあっては困ると思い、ついていくことにした。彼氏の家はこのファミレスから歩いて五分ほどの距離にあるという。さっそく伝票を取ってレジに向かった。
家まで歩く途中、彼氏についてミサが話し出した。
彼氏の名前はキョウタロウ。美術大学の四年生で、真面目な、おとなしい人物らしいが、芸術家らしくかなり神経質で変わり者のようだ。ある日家に行ったら居間の壁中にいろいろな彫刻の写真が貼ってあり、ミサを驚かせたこともあるらしい。
ただ高校生のミサにはそんな所もアーティスティックに映ったようだ。そしてなにより、このキョウタロウはものすごい美形なのだそうだ。ミサいわくそこに「も」惹かれたらしいが、俺は「も」は不要じゃないかと思っている。
最近は卒業制作のため大学と家のどちらかで作業をしていることが多かったという。
そうこうしているうちにアパートの前に着いた。ミサが携帯に電話をかける。いつものように圏外だったようだ。
「きっと家にいるわ。こっそり入って浮気現場を押さえるのよ」
といってミサはポケットから鍵を取り出し掲げた。そういうつもりだったのか。なんだか大変なことになってきたがここまできたら行くしかない。
彼の住む三階までエレベータで上がり、部屋の扉の前に着くと、ミサは唇に一本立てた人差し指を当て、静かに鍵を挿し、回した。……こういう感じの、テレビで見たことあるような。
チャ、と小さな音をたてて鍵が開いた。ゆっくり扉を開き、体分開いた所で中に入る。正面に居間が見えたが、電気やパソコンは煌々とついているにもかかわらず、誰もいない。居間の奥に襖が見える。おそらく襖の向こうが寝室なのだろう。ミサは俺の手を引くと土足のまま忍び足で居間を通り抜け、襖の前に立った。奥からぼそぼそと話し声が聞こえる。
またミサが人差し指を立てて唇にあてると、反対の手で襖を引いた。襖には錠を差し込む金具が付いており、今は鍵は付いていなかった。もしかすると内側に鍵がかかっているかもしれないと思ったが、何の手ごたえもなく一センチほど開いた。幸いにも全く何の音もしなかった。
隙間から中を覗くと、薄暗い部屋の中に、ベッドに座る二人の影が見えた。カーテンを閉め切り、ナイトランプのような暗めのライトをつけているようだ。
キョウタロウは、隣に座るセミロングの栗色の髪の女性の肩を抱き、何かを話していた。はっきりと聞き取れないが愛してるとか、綺麗だとか、そんな感じのことをうっとりと呟いているようだ。女性は俺たちにほとんど背を向けており、顔は見えない。
キョウタロウが女性の顎に手をそえ、引きよせたように見えた。と
思った瞬間、ミサが我慢の限界に来たらしく、勢いよく襖を開けた。
「キョウちゃんのバカー!」
とミサは叫ぶと、部屋に飛び込んでいった。俺も勢いに任せ後に続く。キョウタロウはミサの声にビクっと反応し、目を剥いて俺達を見上げた。白いほっそりとした顔が、居間から延びた蛍光灯の白い光に照らされる。女性は俺たちに背を向けたまま微動だにしない。
「ミサ……」
ミサは、そう呟くキョウタロウを一瞥すると、意識をじっとしたまままの女性のほうに向けた。
「ちょっとあなた、どういうつもりなの!?」
ミサは女性の肩に手を置き、こちらを向かせるようにグイと引っ張った。
すると女性は音もなく仰向けにベッドの上に倒れてしまった。ミサが悲鳴をあげる。二人でおそるおそる女性を覗き込むと、ミサに引っ張られて服がはだけた右肩に、関節のつなぎ目が覗いていた。
それは、プラスチックのマネキンのような人形だった。
黄色いサマーセーターから伸びた白いすべすべとした首が、蛍光灯の白い明りを吸いこんで冷たく光っていた。赤く瑞々しい唇の上に、形の良い小ぶりの鼻があり、その両脇に大きく真っ黒なガラスの瞳が宙を仰いでいる。肢体は両腕を広げた格好で固まっていて、彼女だけ時間が止まってしまったかのようだった。
俺とミサは言葉もなく立ち尽くし、沈黙で数秒が過ぎた。
「……けよ」
キョウタロウが、人形を抱き起こし、何かつぶやいた。
「出てけよ――!!」
キョウタロウが絶叫するのに弾かれるように、俺たちは黙ってキョウタロウの家を後にした。その後、ミサとどこで別れたのか、どんなふうに家に帰ったかも覚えていない。
これは後で気づいたことだが、キョウタロウの中世的な美しい顔と、マネキンのなまめかしく微笑む顔はそっくりで、今でも目をつぶるとありありと思い出せるほどだ。
あの人形は何だったのか、ミサとキョウタロウがその後どうなったか、俺は知らない。
第二話へ
あとがき↓ 注意*他作品のネタばれがあります。
影山くんの奇妙な日常 第二話の1
俺は影山真人、大学二年生。勉強はそこそこにバンド活動とバイトに勤しむ毎日だ。
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。そして自分で言うのもなんだけど結構もてる。でも俺はあまり女性と付き合うのが得意じゃなくて特定の彼女はいない。これは姉三人に囲まれて育ったせいだと思っているが因果関係は定かでない。
今日は十二月二十三日、クリスマスイブイブってやつだ。俺は大学の友人とやっているバンドのライブのため、ライブハウスFの控室に来ていた。今は対バンしてくれたレナーレというバンドがステージで演奏している。俺は喉に優しいという温かいハーブティーを飲みながら、本番で忘れないようにプリントアウトした歌詞を見ていた。隣ではドラムの玲がスティックでテーブルを叩いて練習している。
ふと玲のスティックを握る指が目にとまった。黒いマニキュアを塗っている。
「玲、どうしたんだよ、その爪」
俺は思わず玲に聞いた。よくぞ気付いた、とばかりに手を止めて玲が答える。
「かわいいだろ? ヤスに塗ってもらったんだよ」
ヤスは玲が可愛がっている軽音サークルの後輩だ。今日も裏でなにかと手伝いをしてくれた。
「ふーん」
そう言ったきり後が続かない。わざわざ聞いた割にそっけない反応をしてしまったのは、初恋の女性を思い出していたからだった。俺が黙ったので、玲もすぐにテーブルを叩くのを再開した。そして俺は俺で、黒いマニキュアを見てそれとは対照的な真っ白な女性を思い出していた。
高校一年生の夏休みだったと思う。俺はもう日が高くなってから起きだして楽器やオーディオ関係が置いてある離れの二階へ行った。中二からバンドなどに興味を持ち始めた俺のために、親がうるさいからと物置の二階を俺用のスペースにしてくれたのだ。
その日も外は晴天で暑く、離れは閉め切られて蒸していた。俺は部屋に入ると年代物のエアコンのスイッチを入れた。部屋の奥の窓をからりと開け、空気を入れ替える。そうでもしないとエアコンが効き始める間に干からびてしまいそうだった。
不意に窓の外から水音が聞こえ、俺は反射的に窓から音のするほうを見た。そこが隣の家の風呂なのだと認識したのはかなり後になってからだったと思う。隣の家の一階の曇りガラスの窓が十センチほど開いて、そこからシャワーの水音が漏れていた。
中にいるのは若い女性の様で、隣の家の娘さんだとそのとき直感した。家族にミユキと呼ばれているのを聞いたことがあった。
窓の隙間からは、真っ白な肩からうなじ、そこから続く顎から鼻のあたりまでが見えた。外に比べて薄暗い風呂場に真っ白い肌が浮き立っていて、その眩しいほど白い二の腕に、赤い線が走っていた。傷だ。蚯蚓腫れのような長い傷。白い肌と真っ赤な傷がゆるゆると動くその光景に、俺は思わず息をのみ、目が離せなくなった。
何秒かその光景を呆然と見ていたと思う。白い腕が窓の淵に伸びてきた。ミユキが窓が開いていることに気付いて、閉めるために窓に近づいてきたのだ。まずい、覗いているのがばれる、と思ったが体も目線も動かせなかった。白い手が曇りガラスの窓にかかる。
窓を閉めるとき、一瞬ミユキは上を見上げ、俺は目が合ったような気がした。シャワーで火照ったのか、不自然なぐらい赤くなったミユキの唇が目に焼きついた。
それから俺はミユキのことばかり考えて悶々としていた。お隣さんなので、出かけるときに家の前で顔を合わせることがあった。ミユキは当時大学生で、自転車で通学していたようだった。自転車をガレージに止めているのをよく見かけ、俺が勇気を振り絞って挨拶すると、振り返ってあら、こんにちはと微笑んだ。清楚なお嬢さんと言って出で立ちで、その上品な笑顔に胸が熱くなった。もっと仲良くなりたい、何か話しかけるきっかけがほしいと願っていたが、残念ながら挨拶する以外に接点はなかった。
二話の2へ
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。そして自分で言うのもなんだけど結構もてる。でも俺はあまり女性と付き合うのが得意じゃなくて特定の彼女はいない。これは姉三人に囲まれて育ったせいだと思っているが因果関係は定かでない。
今日は十二月二十三日、クリスマスイブイブってやつだ。俺は大学の友人とやっているバンドのライブのため、ライブハウスFの控室に来ていた。今は対バンしてくれたレナーレというバンドがステージで演奏している。俺は喉に優しいという温かいハーブティーを飲みながら、本番で忘れないようにプリントアウトした歌詞を見ていた。隣ではドラムの玲がスティックでテーブルを叩いて練習している。
ふと玲のスティックを握る指が目にとまった。黒いマニキュアを塗っている。
「玲、どうしたんだよ、その爪」
俺は思わず玲に聞いた。よくぞ気付いた、とばかりに手を止めて玲が答える。
「かわいいだろ? ヤスに塗ってもらったんだよ」
ヤスは玲が可愛がっている軽音サークルの後輩だ。今日も裏でなにかと手伝いをしてくれた。
「ふーん」
そう言ったきり後が続かない。わざわざ聞いた割にそっけない反応をしてしまったのは、初恋の女性を思い出していたからだった。俺が黙ったので、玲もすぐにテーブルを叩くのを再開した。そして俺は俺で、黒いマニキュアを見てそれとは対照的な真っ白な女性を思い出していた。
高校一年生の夏休みだったと思う。俺はもう日が高くなってから起きだして楽器やオーディオ関係が置いてある離れの二階へ行った。中二からバンドなどに興味を持ち始めた俺のために、親がうるさいからと物置の二階を俺用のスペースにしてくれたのだ。
その日も外は晴天で暑く、離れは閉め切られて蒸していた。俺は部屋に入ると年代物のエアコンのスイッチを入れた。部屋の奥の窓をからりと開け、空気を入れ替える。そうでもしないとエアコンが効き始める間に干からびてしまいそうだった。
不意に窓の外から水音が聞こえ、俺は反射的に窓から音のするほうを見た。そこが隣の家の風呂なのだと認識したのはかなり後になってからだったと思う。隣の家の一階の曇りガラスの窓が十センチほど開いて、そこからシャワーの水音が漏れていた。
中にいるのは若い女性の様で、隣の家の娘さんだとそのとき直感した。家族にミユキと呼ばれているのを聞いたことがあった。
窓の隙間からは、真っ白な肩からうなじ、そこから続く顎から鼻のあたりまでが見えた。外に比べて薄暗い風呂場に真っ白い肌が浮き立っていて、その眩しいほど白い二の腕に、赤い線が走っていた。傷だ。蚯蚓腫れのような長い傷。白い肌と真っ赤な傷がゆるゆると動くその光景に、俺は思わず息をのみ、目が離せなくなった。
何秒かその光景を呆然と見ていたと思う。白い腕が窓の淵に伸びてきた。ミユキが窓が開いていることに気付いて、閉めるために窓に近づいてきたのだ。まずい、覗いているのがばれる、と思ったが体も目線も動かせなかった。白い手が曇りガラスの窓にかかる。
窓を閉めるとき、一瞬ミユキは上を見上げ、俺は目が合ったような気がした。シャワーで火照ったのか、不自然なぐらい赤くなったミユキの唇が目に焼きついた。
それから俺はミユキのことばかり考えて悶々としていた。お隣さんなので、出かけるときに家の前で顔を合わせることがあった。ミユキは当時大学生で、自転車で通学していたようだった。自転車をガレージに止めているのをよく見かけ、俺が勇気を振り絞って挨拶すると、振り返ってあら、こんにちはと微笑んだ。清楚なお嬢さんと言って出で立ちで、その上品な笑顔に胸が熱くなった。もっと仲良くなりたい、何か話しかけるきっかけがほしいと願っていたが、残念ながら挨拶する以外に接点はなかった。
二話の2へ
影山くんの奇妙な日常 第二話の2
その日は夏休みの真ん中辺の登校日で、夏本番の太陽が照りつける暑い日だった。たらたらと家に向かって歩いていると、十メートルぐらい手前で家の前に一番上の姉とミユキが立っているのに気付いた。この暑いのに家の前で世間話に花を咲かせているようだ。
暑くて意識が朦朧としていたのが、一瞬にして緊張した。うまくいけば姉との話の中に加わってこれを機に仲良くなれるかもしれない。そう思って期待に胸を高鳴らせていた。
しかし家に近付くにつれて、ミユキの横にもう一人だれか立っているのが見えた。男だった。誰だろうと思いを巡らせる間もなく家の前に着く。姉が、あらおかえりなさいと言って俺を迎えると、
「真人、こちらカオルくん、小さいころ一緒に遊んだの覚えてない?」
そういってミユキの隣に立っている男を指した。背が高く、眼鏡の奥の目が優しそうな好青年だ。確かに見覚えがある。小さいころここら辺に住んでいたけど引っ越してしまったお兄さんだった。よく遊んでもらった。カオルは嬉しそうに言った。
「真人くん大きくなったなあ」
「こんにちは。お久しぶりです。」
笑顔で挨拶をする。しかし俺は嫌な予感がしていた。
「ねぇ、真人。カオルくんとミユキちゃんお付き合いしてるんだって。大学で偶然再会したんですって。びっくりするわねえ、二人ともちょっと前まで小学生だったのに」
いやな予感は的中した。姉の言葉にふふふ、と目を合わせて笑う二人はどこから見てもお似合いだった。ミユキの天使のような微笑みが眩しい。彼氏がいることを想定していなかったわけではないけれど、こんな形で恋人といるところを目の当たりにしてしまうなんて。顔では微笑みを崩さなかったが、心はどんどん沈んでいった。早く家に入りたかった。
じゃあまた、とかなんとか適当に挨拶して、おばさん化してペラペラ話している姉を残して家に入ると、すぐに離れに行きエアコンをつけた。窓も開けたけれど、当然あの時のように水音は聞こえてこなかった。
恋に落ちた動機こそ不純で、性欲と紙一重だったけど、初めて女性に憧れを抱いたのに、あっという間に失恋してしまったのだ。
あのミユキの真っ白な肌に触れ、傷に口づけするカオルが目を閉じるたびに浮かんできて、俺はまた悶々とした日々を過ごさなければならなかった。
暑くて意識が朦朧としていたのが、一瞬にして緊張した。うまくいけば姉との話の中に加わってこれを機に仲良くなれるかもしれない。そう思って期待に胸を高鳴らせていた。
しかし家に近付くにつれて、ミユキの横にもう一人だれか立っているのが見えた。男だった。誰だろうと思いを巡らせる間もなく家の前に着く。姉が、あらおかえりなさいと言って俺を迎えると、
「真人、こちらカオルくん、小さいころ一緒に遊んだの覚えてない?」
そういってミユキの隣に立っている男を指した。背が高く、眼鏡の奥の目が優しそうな好青年だ。確かに見覚えがある。小さいころここら辺に住んでいたけど引っ越してしまったお兄さんだった。よく遊んでもらった。カオルは嬉しそうに言った。
「真人くん大きくなったなあ」
「こんにちは。お久しぶりです。」
笑顔で挨拶をする。しかし俺は嫌な予感がしていた。
「ねぇ、真人。カオルくんとミユキちゃんお付き合いしてるんだって。大学で偶然再会したんですって。びっくりするわねえ、二人ともちょっと前まで小学生だったのに」
いやな予感は的中した。姉の言葉にふふふ、と目を合わせて笑う二人はどこから見てもお似合いだった。ミユキの天使のような微笑みが眩しい。彼氏がいることを想定していなかったわけではないけれど、こんな形で恋人といるところを目の当たりにしてしまうなんて。顔では微笑みを崩さなかったが、心はどんどん沈んでいった。早く家に入りたかった。
じゃあまた、とかなんとか適当に挨拶して、おばさん化してペラペラ話している姉を残して家に入ると、すぐに離れに行きエアコンをつけた。窓も開けたけれど、当然あの時のように水音は聞こえてこなかった。
恋に落ちた動機こそ不純で、性欲と紙一重だったけど、初めて女性に憧れを抱いたのに、あっという間に失恋してしまったのだ。
あのミユキの真っ白な肌に触れ、傷に口づけするカオルが目を閉じるたびに浮かんできて、俺はまた悶々とした日々を過ごさなければならなかった。
影山くんの奇妙な日常 第二話の3
ミユキに失恋した日から数日後、俺は初めてのスタジオ練習を経験した。スタジオでの練習は、当時の俺からしてみたら本格的に音楽を始めたって感じでうれしく、そして素晴らしく楽しかった。そのころは俺も真面目にギターを練習しててボーカルとサイドギターを担当していた。ドラムは玲でサイドギターとベースは三年生の先輩だったと思う。
まだ夕方明るいうちに入って、出てくるときにはどっぷりと日が暮れていた。クーラーの効いたスタジオから外に出るとむわっとした熱気に包まれる。それと同時に向かいのイタリアンレストランからニンニクのいい香りが漂ってきて、ぺこぺこのお腹がキューと鳴った。思わずガラス張りの店を眺める。「ヌクイ・イタリアン」おしゃれでちょっと高そうな店だった。
先輩がスタジオの精算をするのを待っていると、仲のよさそうなカップルが腕を組んで歩いてきた。どうやらヌクイ・イタリアンにはいるようだ。女のほうは黒いラメの入ったミニスカートで、胸元の大きく開いたキャミソールにジャケットを羽織っていた。化粧も髪型も男にもたれかかるようにして歩く姿もいかにもな感じの派手な女だったが、黒いストッキングの足はすらっとしていて、色香が漂ってた。
男のほうの顔を何気なく見たとき、俺は固まった。カオルだったのだ。カオルは少しフォーマルなジャケットを着て紳士的に女をエスコートしていた。俺は呆然として二人がレストランに入っていくのを見送った。
カオルがミユキを裏切っていることはまだピュアだった俺にはショックだった。あんなに綺麗で清純なミユキと付き合っておきながら、どうして他の女とも付き合わなければいけないのか。カオルを羨ましく思うよりは、理解できない気持ちのほうが強かった。今思えばただの友人や親戚だった可能性もあることに思い当たるのだが、そのときには全く思いつかなかったし、二人で歩いている時の親密なムードから深い関係にあると思い込んだ。そしてこのことをミユキに告げたらどう思うだろう、清純そうなミユキのことだからきっと悲しみ、カオルと別れるのではないか。浮気をするような男よりも自分のほうがミユキを幸せにできるのではないか、というところまで思いつめていた。
とはいえ、このことをミユキに伝える機会はなく、わざわざ伝えに行く勇気も行動力もなく、高一の夏休みは淡々と過ぎて行った。
夏休みも終わりごろ、俺はスタジオの下にある小さなライブハウスでライブをやった。地元で人気のあるバンドの前座としてだけれど、これも初めての経験だったのですこぶるテンションが上がった。演奏の出来栄えとかは全然覚えていないけど、とにかく楽しくて盛り上がったので達成感があった。周りもみんな上機嫌だった。すべてのバンドの演奏が終わり、片付けが終わって外に出ると結構遅い時間になっていた。これから打ち上げ。うきうきした気持ちのままスタジオの前でメンバーがそろうのを待っていると、向かいの「ヌクイ・イタリアン」から見覚えのあるカップルが出てきた。カオルとあの派手な女だった。お酒を飲んでいるのか二人とも上気した顔でべったりと寄り添い、繁華街とは反対側の、いかがわしいホテルのある方向に歩きだした。
俺はライブでテンションが上がっていたせいか一気に頭に血が上り、気づくと二人を追いかけていた。追いかけてどうしようとしたのかは自分でもわからない。ミユキさんに悪いと思わないのか、と詰め寄るつもりだったのか、ミユキさんはおれが貰う、と啖呵をきるつもりだったのか。とにかく必死の勢いで追いかけていた。
追いつきそうになったところで短い横断歩道に阻まれる。車通りが多く、信号を無視できる状態でもない。カオルもすぐ先にあるもう一つの横断歩道の信号待ちをしていた。カオルたちまでのほんの数メートルがもどかしい。
だらしなく上着を着崩して、カオルにしなだれかかっている女が手前側に立っていた。行き交う車の合間に、改めてまじまじと女を観察する。思いのほか白い肌がピンク色に上気し、はだけた肩を抱えた手には黒いマニキュアが塗られ、白い肩に点々と浮かび上がっていた。その黒い点の上に一本の赤い筋が見えた。俺はギクリと身を震わせた。まさか。
なり振りかまわずじっくりと顔をみる。女も俺のほうを見て、目が合った。少し驚いたような顔をしたが、にっと笑った。唇が毒々しいほどに赤かった。
濃い化粧に、茶色のボブの女は、よく見れば間違いなくミユキだった。
俺は一気に熱に浮かされたような状態から冷め、肩を落として元来た道を引き返した。
スタジオ前まで戻ると上機嫌の玲に、どこ行ってたんだよいこうぜ、とかなんとか声をかけられて、言われるがままに打ち上げについて行ったが、テンションは上がらなかった。
信号が赤でよかった。あのまま追いついていたら恥をかいただろう。あの派手な女がミユキだったことのショックからはなかなか立ち直れなかった。家の近所で見かけるときにはあんな恰好をしているところは一回も見たことがなかった。黒いロングヘアを時には一つにまとめて、清楚なブラウスやワンピースを着て穏やかな足取りで……。それまでミユキに抱いていた憧れのイメージが崩れていった。完全におれの独り相撲だったのだ。
「おい、そろそろ出番だぞ」
玲の声ではっと回想から覚める、歌詞の確認はほとんどできていなかった。
「ぼーっとしちゃって大丈夫かよ?」
玲が眉をひそめて言う。お前のせいで余計なこと思い出したんじゃないか。
「おまえのその爪のせいなんだよ」
俺がそう言うと、玲はわけがわからない、という顔でスティックをもって立ち上がった。ベースの木下が
「じゃあ行こうぜ」
とみんなに声をかけたのを合図に、俺も立ち上がり部屋を出た。ステージから嬌声と激しい演奏が聞こえてきた。
まだ夕方明るいうちに入って、出てくるときにはどっぷりと日が暮れていた。クーラーの効いたスタジオから外に出るとむわっとした熱気に包まれる。それと同時に向かいのイタリアンレストランからニンニクのいい香りが漂ってきて、ぺこぺこのお腹がキューと鳴った。思わずガラス張りの店を眺める。「ヌクイ・イタリアン」おしゃれでちょっと高そうな店だった。
先輩がスタジオの精算をするのを待っていると、仲のよさそうなカップルが腕を組んで歩いてきた。どうやらヌクイ・イタリアンにはいるようだ。女のほうは黒いラメの入ったミニスカートで、胸元の大きく開いたキャミソールにジャケットを羽織っていた。化粧も髪型も男にもたれかかるようにして歩く姿もいかにもな感じの派手な女だったが、黒いストッキングの足はすらっとしていて、色香が漂ってた。
男のほうの顔を何気なく見たとき、俺は固まった。カオルだったのだ。カオルは少しフォーマルなジャケットを着て紳士的に女をエスコートしていた。俺は呆然として二人がレストランに入っていくのを見送った。
カオルがミユキを裏切っていることはまだピュアだった俺にはショックだった。あんなに綺麗で清純なミユキと付き合っておきながら、どうして他の女とも付き合わなければいけないのか。カオルを羨ましく思うよりは、理解できない気持ちのほうが強かった。今思えばただの友人や親戚だった可能性もあることに思い当たるのだが、そのときには全く思いつかなかったし、二人で歩いている時の親密なムードから深い関係にあると思い込んだ。そしてこのことをミユキに告げたらどう思うだろう、清純そうなミユキのことだからきっと悲しみ、カオルと別れるのではないか。浮気をするような男よりも自分のほうがミユキを幸せにできるのではないか、というところまで思いつめていた。
とはいえ、このことをミユキに伝える機会はなく、わざわざ伝えに行く勇気も行動力もなく、高一の夏休みは淡々と過ぎて行った。
夏休みも終わりごろ、俺はスタジオの下にある小さなライブハウスでライブをやった。地元で人気のあるバンドの前座としてだけれど、これも初めての経験だったのですこぶるテンションが上がった。演奏の出来栄えとかは全然覚えていないけど、とにかく楽しくて盛り上がったので達成感があった。周りもみんな上機嫌だった。すべてのバンドの演奏が終わり、片付けが終わって外に出ると結構遅い時間になっていた。これから打ち上げ。うきうきした気持ちのままスタジオの前でメンバーがそろうのを待っていると、向かいの「ヌクイ・イタリアン」から見覚えのあるカップルが出てきた。カオルとあの派手な女だった。お酒を飲んでいるのか二人とも上気した顔でべったりと寄り添い、繁華街とは反対側の、いかがわしいホテルのある方向に歩きだした。
俺はライブでテンションが上がっていたせいか一気に頭に血が上り、気づくと二人を追いかけていた。追いかけてどうしようとしたのかは自分でもわからない。ミユキさんに悪いと思わないのか、と詰め寄るつもりだったのか、ミユキさんはおれが貰う、と啖呵をきるつもりだったのか。とにかく必死の勢いで追いかけていた。
追いつきそうになったところで短い横断歩道に阻まれる。車通りが多く、信号を無視できる状態でもない。カオルもすぐ先にあるもう一つの横断歩道の信号待ちをしていた。カオルたちまでのほんの数メートルがもどかしい。
だらしなく上着を着崩して、カオルにしなだれかかっている女が手前側に立っていた。行き交う車の合間に、改めてまじまじと女を観察する。思いのほか白い肌がピンク色に上気し、はだけた肩を抱えた手には黒いマニキュアが塗られ、白い肩に点々と浮かび上がっていた。その黒い点の上に一本の赤い筋が見えた。俺はギクリと身を震わせた。まさか。
なり振りかまわずじっくりと顔をみる。女も俺のほうを見て、目が合った。少し驚いたような顔をしたが、にっと笑った。唇が毒々しいほどに赤かった。
濃い化粧に、茶色のボブの女は、よく見れば間違いなくミユキだった。
俺は一気に熱に浮かされたような状態から冷め、肩を落として元来た道を引き返した。
スタジオ前まで戻ると上機嫌の玲に、どこ行ってたんだよいこうぜ、とかなんとか声をかけられて、言われるがままに打ち上げについて行ったが、テンションは上がらなかった。
信号が赤でよかった。あのまま追いついていたら恥をかいただろう。あの派手な女がミユキだったことのショックからはなかなか立ち直れなかった。家の近所で見かけるときにはあんな恰好をしているところは一回も見たことがなかった。黒いロングヘアを時には一つにまとめて、清楚なブラウスやワンピースを着て穏やかな足取りで……。それまでミユキに抱いていた憧れのイメージが崩れていった。完全におれの独り相撲だったのだ。
「おい、そろそろ出番だぞ」
玲の声ではっと回想から覚める、歌詞の確認はほとんどできていなかった。
「ぼーっとしちゃって大丈夫かよ?」
玲が眉をひそめて言う。お前のせいで余計なこと思い出したんじゃないか。
「おまえのその爪のせいなんだよ」
俺がそう言うと、玲はわけがわからない、という顔でスティックをもって立ち上がった。ベースの木下が
「じゃあ行こうぜ」
とみんなに声をかけたのを合図に、俺も立ち上がり部屋を出た。ステージから嬌声と激しい演奏が聞こえてきた。
影山くんの奇妙な日常 第三話
俺は影山真人、大学二年生。勉強はそこそこにバンド活動とバイトに勤しむ毎日だ。
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。そして自分で言うのもなんだけど結構もてる。逆ナンだってけっこうされる。バンドをやっているのでこちらが知らない人にも名前を覚えられていて、いきなり声をかけられることもしばしばだ。
あれは去年の十月、駅前の楽器店を目的もなくうろついていた時だった。
「あの、影山くん?」
不意に声をかけられ、またかなと反射的に営業用スマイルをつくると、声のほうを向く。
「そうだけど? 何か用?」
声の主はきれいな女の子だった。同い年くらいだろうか、ちょっと大人っぽい雰囲気もあって少し年上ぐらいかもしれないと思った。その子に見覚えはなかったけれど、美人なので悪い気はしなかった。
「知り合いに木下譲二っているでしょ?」
彼女の言葉は俺の期待に反していたけれど、珍しいことではなかった。同じバンドのメンバーに伝言やなにかを渡してくれと頼まれることもよくあることで、それはメンバーの中でも人気のある木下がダントツに多かったからだ。
「うん、木下になんか伝言でも?」
なんだ、木下のファンか、とちょっとがっかりしつつも笑顔を保ったまま問いかける。
「よかった、うろ覚えだったから。譲二のバンドのボーカルさんだよね? 私、レイコって言います。譲二と芸くんの友人なんだけど……。二人は元気?」
「ああ、そうなんだ。二人とも元気だよ。なんならここに呼ぼうか?」
そう提案すると、レイコは少し考えて首を振って言った。
「ううん、いいの。それより今時間があるならちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれない?」
俺も特に予定がなく、時間を持て余していたから、近くの喫茶店に入ることにした。
二人ともコーヒーを頼む。注文が済むと、レイコが口を開いた。
「私、バンドに興味があって、やってみたいんだけど、誰か紹介してくれないかな?」
唐突に彼女はそんなことを言った。そしてこう付け加えた。
「初めて会った人に急にこんなこと言うの図々しいよね、ごめんね。さっきの楽器屋でよさそうな人に声かけて見ようと思ってたんだけど、目に付いた人が影山くんだったから」
レイコはちょっと眉を寄せて申し訳なさそうな顔をする。
「バンドメンバー探している奴なら何人か当てもあるし、そこそこ腕がある奴もしってるし、それにレイコちゃんみたいに可愛い子ならみんな大歓迎だと思うけど……。木下や清水谷に相談してみた?」
「ううん、二人には三年以上会ってないことになるのかな。それにもう、二人とは連絡取らないほうがいいんじゃないかと思ってるとこもあって……」
そう言うとレイコは目を伏せた。なにか木下と清水谷どちらかわからないけどわけありのようだ。そして女性に頼られると無下にできないのがこの俺だ。
「わかった。木下たちには内緒で心当たりに声かけてみるよ。連絡先を教えてくれる?」
そう言って俺は携帯を取り出した。
「ありがとう!」
レイコは満面の笑みで礼を言うと、携帯を取り出し番号を交換した。
程なくして俺は大学の友人を紹介してやり、レイコは顔合わせの後、無事にバンドをはじめたようだった。レイコからはいい人たちを紹介してくれてありがとう、と言うメールが届き、紹介した大学の友人たちもすごく歌もギターもうまくていい子だと喜んでいて、満足した俺は日常に追われ、レイコのことをすっかり忘れていた。
クリスマスライブのチケットを捌いているとき、ふとレイコのことを思いだし、すぐに電話をした。
「十二月二十三日なんだけど、どう?」
そう言うとレイコは声を弾ませて、
「うん、いくいく!」
といい返事をした。俺は誘ってよかったと思った。
「じゃあ、ライブ始まる前に待ち合わせしよう。チケット渡すからさ」
「了解」
ライブ当日、俺とレイコはライブハウスの近くのファーストフードで待ち合わせをした。
俺がライブの準備を終えて抜け出してくと、レイコはもう窓際の席でコーヒーを飲んでいた。
「おまたせ、これチケット」
向かい側の席に座るなりチケットを差し出す。
「さっきライブハウスの前まで行ったけどすごい並んでたよ。人気あるんだね」
レイコはにっこり笑うと、チケットを受け取りながらそう言った。
「いや、あれは対バンしてるバンドのファンだよ」
そう言って謙遜しつつも、ちょっとうれしくなる。
「よかったら、打ち上げにもおいでよ」
そう言って誘うと、レイコは首を振った。
「いいの、明後日私もライブがあって。明日練習だしゆっくりできないから」
「木下や清水谷に会っていかないの?」
そう聞くとレイコはまた首を振って黙った。俺は何となく気まずくて話を変える。
「そっちのバンドの調子はどう? 明後日はどこでライブやるの?」
「うん、Pランドでやるんだけど路上ライブだからもし時間があれば。本当にバンド楽しくって。でもせっかく紹介してもらったんだけど、実は私の都合で三カ月限定のバンドにしてもらったんだ。だから今回が最初で最後のライブになるかもしれないけど」
「そうなんだ。クリスマスは俺バイトだわ。ケーキ配りの。すごい残念だな。また機会あったらぜひ」
そんな感じで少し雑談をすると、俺は、じゃあまたあとで、と言い、またライブハウスに戻った。
ライブが始まるとステージの上から彼女を探した。一番後ろのほうにポツンと立っているのが見えた。出番が終わるとその場所まで行ってみたけど、すでに帰ってしまったようで、彼女の姿はなかった。
久しぶりにメールが届き、レイコに会うことになったのは年が明けてすぐのことだった。待ち合わせは、初めて会ったときと同じ駅前の喫茶店だった。
「いろいろお世話になって、ありがとう」
顔を合わせるなり、レイコはそう言って笑った。もうどこかへ行ってしまうような口ぶりだった。とりあえずどういたしまして、と応じる。
「そういえばPランドのライブの日、譲二たちに会った。デートしてたみたい」
レイコは少し寂しそうな顔をした。ちょうどいい機会だと俺は、前から思っていた疑問を口にした。
「あの、レイコちゃんと木下と清水谷ってどういう関係なの?」
尋ねるとレイコは本当に悲しそうな顔をした。
「私、そう、私ね、譲二の婚約者なの」
そう言うと薬指に光る指輪を見せた。
「ええ? 婚約者? あいつそんなこと一言も……」
俺は彼女の急な告白にびっくりして口ごもった。木下は俺と同じでまだ二十歳だし大学生だ。それに木下には実花ちゃんという仲のいい女の子もいる。
「うふふ、といってもまだ今は婚約してない」
そう言ってレイコは笑った。俺をからかって楽しんでいるかのような口調だ。どういう意味だろう。この子少しおかしいんじゃないのか。もしかして木下のストーカーか何かだったのだろうか? 俺は少し気味悪くなっていた。
「私、もう何年もいろんなところを転々としててね。影山くんにはなんか思い出話をしたくなっちゃった。きいてくれる?」
真剣な、縋る様な目つきでこんなことを言うレイコを、俺はとにかく刺激してはいけないような気がして、ただ頷くしかなかった。
「私と譲二は、二十四歳のときに出会った。楽器メーカに勤めてて同じ部署で働いてたのよ。それで意気投合して、付き合い始めた。婚約して、仕事も慣れてやりがいを感じられるようになって、これからって時に、事故にあってしまった。それからいろいろなところに飛ばされるようになった」
「飛ばされる?」
俺は思わず聞き返していた。話の先が見えず混乱してきた。
「そう。タイムスリップ。信じられないでしょ? 初めは高校時代に。でも自分の家に行ったら、もう一人の、高校生の自分がいて、普通に生活をしていた。だから居場所がなくなってしまって、どうしようか悩んだ末に、譲二に会いたくなってH市で暮らすことにしたの」
「ちょっと、まって。仮にその話が本当だったとして、住むところも着る物もお金もない状態だろ? どうやって生活してたんだ?」
俺は疑問に思ったことをそのまま口に出して尋ねていた。
「とりあえず、財布にお金があったんだけど、お札が変わってしまっていたから小銭しか使えなかった。カードももちろん使えなくて。それでH市に移動してからしかたなく水商売をしたの。お店の寮に入って、切り詰めて生活したら結構すぐにお金が貯まった。寮を出て一人暮らしして、譲二とも偶然ぽく知り合えて、楽しく暮らしてたんだけど、三ヶ月ぐらい経ったらまた別の時代に飛ばされちゃって。いままでいろんな時代を転々としてる」
そこでレイコは言葉を切って俺の顔を見た。
「信じられない……」
俺は思わずそうつぶやいていた。レイコは少し笑うと、
「そうでしょうね」
と言った。そして一枚のお札を取り出した。
「これは私が事故にあった時代に使われていた千円札よ。私のことはこれを大事にとっておけばそのうちわかるわ」
お札にはある学者の顔が印刷されていて、今までに見たこともないものだったが、確かに日本銀行券と印刷されていた。
「そろそろいかなくちゃ、これ、お世話になったお礼に」
レイコは三十センチ四方の紙袋を差し出した。中には小さな充電式のアンプが入っていた。
「これ……」
「私にはもう、使えないものだから。じゃあ、またね」
そう言うとレイコはコーヒー代の小銭をおいて席を立ち、喫茶店を出て行った。俺は急いで会計をすると後を追って喫茶店を出た。見通しのよい大通りだというのに、すでにレイコの姿は見当たらなかった。
レイコに楽器店で声をかけられてから、ちょうど三ヵ月が経っていた。
バンドではボーカルをやっていてそこそこ人気がある。そして自分で言うのもなんだけど結構もてる。逆ナンだってけっこうされる。バンドをやっているのでこちらが知らない人にも名前を覚えられていて、いきなり声をかけられることもしばしばだ。
あれは去年の十月、駅前の楽器店を目的もなくうろついていた時だった。
「あの、影山くん?」
不意に声をかけられ、またかなと反射的に営業用スマイルをつくると、声のほうを向く。
「そうだけど? 何か用?」
声の主はきれいな女の子だった。同い年くらいだろうか、ちょっと大人っぽい雰囲気もあって少し年上ぐらいかもしれないと思った。その子に見覚えはなかったけれど、美人なので悪い気はしなかった。
「知り合いに木下譲二っているでしょ?」
彼女の言葉は俺の期待に反していたけれど、珍しいことではなかった。同じバンドのメンバーに伝言やなにかを渡してくれと頼まれることもよくあることで、それはメンバーの中でも人気のある木下がダントツに多かったからだ。
「うん、木下になんか伝言でも?」
なんだ、木下のファンか、とちょっとがっかりしつつも笑顔を保ったまま問いかける。
「よかった、うろ覚えだったから。譲二のバンドのボーカルさんだよね? 私、レイコって言います。譲二と芸くんの友人なんだけど……。二人は元気?」
「ああ、そうなんだ。二人とも元気だよ。なんならここに呼ぼうか?」
そう提案すると、レイコは少し考えて首を振って言った。
「ううん、いいの。それより今時間があるならちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれない?」
俺も特に予定がなく、時間を持て余していたから、近くの喫茶店に入ることにした。
二人ともコーヒーを頼む。注文が済むと、レイコが口を開いた。
「私、バンドに興味があって、やってみたいんだけど、誰か紹介してくれないかな?」
唐突に彼女はそんなことを言った。そしてこう付け加えた。
「初めて会った人に急にこんなこと言うの図々しいよね、ごめんね。さっきの楽器屋でよさそうな人に声かけて見ようと思ってたんだけど、目に付いた人が影山くんだったから」
レイコはちょっと眉を寄せて申し訳なさそうな顔をする。
「バンドメンバー探している奴なら何人か当てもあるし、そこそこ腕がある奴もしってるし、それにレイコちゃんみたいに可愛い子ならみんな大歓迎だと思うけど……。木下や清水谷に相談してみた?」
「ううん、二人には三年以上会ってないことになるのかな。それにもう、二人とは連絡取らないほうがいいんじゃないかと思ってるとこもあって……」
そう言うとレイコは目を伏せた。なにか木下と清水谷どちらかわからないけどわけありのようだ。そして女性に頼られると無下にできないのがこの俺だ。
「わかった。木下たちには内緒で心当たりに声かけてみるよ。連絡先を教えてくれる?」
そう言って俺は携帯を取り出した。
「ありがとう!」
レイコは満面の笑みで礼を言うと、携帯を取り出し番号を交換した。
程なくして俺は大学の友人を紹介してやり、レイコは顔合わせの後、無事にバンドをはじめたようだった。レイコからはいい人たちを紹介してくれてありがとう、と言うメールが届き、紹介した大学の友人たちもすごく歌もギターもうまくていい子だと喜んでいて、満足した俺は日常に追われ、レイコのことをすっかり忘れていた。
クリスマスライブのチケットを捌いているとき、ふとレイコのことを思いだし、すぐに電話をした。
「十二月二十三日なんだけど、どう?」
そう言うとレイコは声を弾ませて、
「うん、いくいく!」
といい返事をした。俺は誘ってよかったと思った。
「じゃあ、ライブ始まる前に待ち合わせしよう。チケット渡すからさ」
「了解」
ライブ当日、俺とレイコはライブハウスの近くのファーストフードで待ち合わせをした。
俺がライブの準備を終えて抜け出してくと、レイコはもう窓際の席でコーヒーを飲んでいた。
「おまたせ、これチケット」
向かい側の席に座るなりチケットを差し出す。
「さっきライブハウスの前まで行ったけどすごい並んでたよ。人気あるんだね」
レイコはにっこり笑うと、チケットを受け取りながらそう言った。
「いや、あれは対バンしてるバンドのファンだよ」
そう言って謙遜しつつも、ちょっとうれしくなる。
「よかったら、打ち上げにもおいでよ」
そう言って誘うと、レイコは首を振った。
「いいの、明後日私もライブがあって。明日練習だしゆっくりできないから」
「木下や清水谷に会っていかないの?」
そう聞くとレイコはまた首を振って黙った。俺は何となく気まずくて話を変える。
「そっちのバンドの調子はどう? 明後日はどこでライブやるの?」
「うん、Pランドでやるんだけど路上ライブだからもし時間があれば。本当にバンド楽しくって。でもせっかく紹介してもらったんだけど、実は私の都合で三カ月限定のバンドにしてもらったんだ。だから今回が最初で最後のライブになるかもしれないけど」
「そうなんだ。クリスマスは俺バイトだわ。ケーキ配りの。すごい残念だな。また機会あったらぜひ」
そんな感じで少し雑談をすると、俺は、じゃあまたあとで、と言い、またライブハウスに戻った。
ライブが始まるとステージの上から彼女を探した。一番後ろのほうにポツンと立っているのが見えた。出番が終わるとその場所まで行ってみたけど、すでに帰ってしまったようで、彼女の姿はなかった。
久しぶりにメールが届き、レイコに会うことになったのは年が明けてすぐのことだった。待ち合わせは、初めて会ったときと同じ駅前の喫茶店だった。
「いろいろお世話になって、ありがとう」
顔を合わせるなり、レイコはそう言って笑った。もうどこかへ行ってしまうような口ぶりだった。とりあえずどういたしまして、と応じる。
「そういえばPランドのライブの日、譲二たちに会った。デートしてたみたい」
レイコは少し寂しそうな顔をした。ちょうどいい機会だと俺は、前から思っていた疑問を口にした。
「あの、レイコちゃんと木下と清水谷ってどういう関係なの?」
尋ねるとレイコは本当に悲しそうな顔をした。
「私、そう、私ね、譲二の婚約者なの」
そう言うと薬指に光る指輪を見せた。
「ええ? 婚約者? あいつそんなこと一言も……」
俺は彼女の急な告白にびっくりして口ごもった。木下は俺と同じでまだ二十歳だし大学生だ。それに木下には実花ちゃんという仲のいい女の子もいる。
「うふふ、といってもまだ今は婚約してない」
そう言ってレイコは笑った。俺をからかって楽しんでいるかのような口調だ。どういう意味だろう。この子少しおかしいんじゃないのか。もしかして木下のストーカーか何かだったのだろうか? 俺は少し気味悪くなっていた。
「私、もう何年もいろんなところを転々としててね。影山くんにはなんか思い出話をしたくなっちゃった。きいてくれる?」
真剣な、縋る様な目つきでこんなことを言うレイコを、俺はとにかく刺激してはいけないような気がして、ただ頷くしかなかった。
「私と譲二は、二十四歳のときに出会った。楽器メーカに勤めてて同じ部署で働いてたのよ。それで意気投合して、付き合い始めた。婚約して、仕事も慣れてやりがいを感じられるようになって、これからって時に、事故にあってしまった。それからいろいろなところに飛ばされるようになった」
「飛ばされる?」
俺は思わず聞き返していた。話の先が見えず混乱してきた。
「そう。タイムスリップ。信じられないでしょ? 初めは高校時代に。でも自分の家に行ったら、もう一人の、高校生の自分がいて、普通に生活をしていた。だから居場所がなくなってしまって、どうしようか悩んだ末に、譲二に会いたくなってH市で暮らすことにしたの」
「ちょっと、まって。仮にその話が本当だったとして、住むところも着る物もお金もない状態だろ? どうやって生活してたんだ?」
俺は疑問に思ったことをそのまま口に出して尋ねていた。
「とりあえず、財布にお金があったんだけど、お札が変わってしまっていたから小銭しか使えなかった。カードももちろん使えなくて。それでH市に移動してからしかたなく水商売をしたの。お店の寮に入って、切り詰めて生活したら結構すぐにお金が貯まった。寮を出て一人暮らしして、譲二とも偶然ぽく知り合えて、楽しく暮らしてたんだけど、三ヶ月ぐらい経ったらまた別の時代に飛ばされちゃって。いままでいろんな時代を転々としてる」
そこでレイコは言葉を切って俺の顔を見た。
「信じられない……」
俺は思わずそうつぶやいていた。レイコは少し笑うと、
「そうでしょうね」
と言った。そして一枚のお札を取り出した。
「これは私が事故にあった時代に使われていた千円札よ。私のことはこれを大事にとっておけばそのうちわかるわ」
お札にはある学者の顔が印刷されていて、今までに見たこともないものだったが、確かに日本銀行券と印刷されていた。
「そろそろいかなくちゃ、これ、お世話になったお礼に」
レイコは三十センチ四方の紙袋を差し出した。中には小さな充電式のアンプが入っていた。
「これ……」
「私にはもう、使えないものだから。じゃあ、またね」
そう言うとレイコはコーヒー代の小銭をおいて席を立ち、喫茶店を出て行った。俺は急いで会計をすると後を追って喫茶店を出た。見通しのよい大通りだというのに、すでにレイコの姿は見当たらなかった。
レイコに楽器店で声をかけられてから、ちょうど三ヵ月が経っていた。
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